極彩色の白黒

今日も一日ポテチがおいしい。

ぼくが絵を描く理由

 

美しいものが好きだ、と鏡の中の君は言った。

 

 

 

この記事をどう描けばいいのか直前まで悩んでいた、描き始めているからといって解決した訳では無い。

シャワーを浴びながら、豚肉を焼きながら、お粥を啜りながら、考えていた。

 

絵を描くことが好きだ、同時に美しいものも好きだ。

美しいものを追い求めたいという欲求も偶然持ち合わせている。

偶然、この2つを持ち合わせている。

また、更にもう1つ偶然も持ち合わせている。ぼくは小さい頃から絵を描くことが好きだった、そして人並み以上に上手くこなすことが出来、それを少し大きくなってから自覚するようになった。

 

 

「○○さんがあなたのツイートをいいねしました。」

 

 

Twitterというツール。

いいね数、RT数、フォロワー数、他人からの評価が数字で可視化される。

 

ぼくには都合が良かった。

他人からの評価が大事だった。

 

 

美とはなんだろうか。

散る桜だろうか、それとも鷹が蛇を捕食する瞬間だろうか、氷山が崩れ落ちる瞬間か、番号を掲示板で見つけた受験生の笑顔、失恋した女の子の切り立ての髪の毛、点滅する蛍光灯、開花する様子を捉えたタイムラプス、月、壊れたラジカセ、夕焼け、食べかけチーズケーキ、錆びたポスト、映画。

 

溢れるほどの美が世の中には溢れていて、ぼくの一つ身では全てを享受するのは到底追いつけない。

リストアップしたものは、どれも絵にすればいいねを貰えそうなものばかりだ。平たく言えばエモいもの、ばかり。

 

他人からの評価は正直だ、どこまでも正直だ。

フォロワーを買うことができる世の中になったが、上っ面だけを取り繕ったところで化けの皮はすぐに剥がれる。

人は良いと思うものに素直に反応する。

1人が天邪鬼で反応を控えたとしても、群衆は素直である。いいね数はものさしになる。

 

百田尚樹さんの「モンスター」、1人の女性が美しさのために整形を重ねていく話である。

彼女は美しくなって、男性から持て囃されたかったのではない。彼女は美しくなりたかった。誰も敵わない程美しくなることが彼女の目的だった。それだけだった。

 

承認欲求、もしかしたらそんな言葉で片付けられる欲求ではないのかもしれない。

美を追い求めていたい、自分のものにしたい、畢竟自分で創り出したい。自分で創り出せば、それは、創り出したものは自分に属すからだ。いつまでも、理想の美を自分で所有することが出来る。そしたら同時に美もぼくを所有しているかもしれない。

 

いいね数はものさしになる。

ぼくはSNSを利用した。群衆は素直だからだ。

良いと思うものには反応をする。

いいねされた時、ぼく自身は群衆から評価されていない。ぼくを媒介にして、創り出された美しいものが真に美しいかどうか、群衆の審判にかけられているのだ。

 

美を創り出すのには技術がいる、適当にやっていてもきっと歪なものしか出来ない。

ぼくは習得を試みた。

水彩画、写真コラージュ、デジタルイラスト、動画編集、プログラミング。

 

2年と少しの時間をかけて、どれも少しずつ出来るようになった。2年間、表現ツールの習得に腐心した。

 

瞬時に現れては消えてしまうものを、どうやって切り取って、見たまま、感じたまま、聴いたまま、触れたままに残しておくことが出来るのか、刻々と移り変わり、表情を変えていく森羅万象を人間が使える表現手法で綺麗なまま留めて置くことが出来るのか。

 

水彩画だった。

ぼくが初めに目を付けたのは水彩画であった。

 

ぼくは油彩には手を出さなかった。なぜなら速さが足りないと思ったからだ。油彩の速さはぼくとは相容れない。体に流れ込む美しいものの洪水を傍観しながら、一つの作品に多くの時間を注ぐことには向いていなかった。

一方、水彩画は速い。水彩と油彩の優劣を論じているのではない、どちらがぼくの表現ツールに適しているか、否、ぼくがどちらの表現ツールに適しているかを論じている。

 

水が紙に滲んで、絵の具が水を伝って紙上を泳ぐ。一瞬である、描いている間は常に真剣勝負だ。

美しい水彩画というのは形を描かないことに、描き始めてから大分経って気付いた。

美しい水彩画というのは、影を描く。影を描いて、美を閉じ込める。

ものがこの世に存在すると高確率で影というものが選択不可なオプションとして付けられる。

 

影を描くことは、もの自体を描くより、何十倍、何百倍と難しい、その分、もの自体だけでなく空気まで紙の中に閉じ込める。見事に体現している数々の作品を前にして舌を巻いた。

 

 

美の剥製。

 

ぼくはこれを追い求めている。

究める、良い言葉がある。

 

文書も好きだし、映像も好きだし、彫刻も好きだ。しかしぼくは、ミロのヴィーナスのような、たった一瞬しか、切り取れない絵に取り憑かれてしまった。

 

一瞬しか切り取れないから、選び放題である。

連綿と続くフィルムの1枚を取り出して作品にする、他のコマは日の目を見ない。

これが美しかった。

ミロのヴィーナスに両腕があったら、これ程名声を得ることは出来なかっただろうという話は有名である。人間は想像力という絶大な能力を持ち合わせており、それ故、無が無限を産む。正しい一コマを選択することさえ出来れば。

 

 

 

 

 

 

ぼくは絵を選んだ。

いつの日か絵ではない他を選ぶようになったとしても、目途は暫くこのままだ。