学問としての建築
最近書くネタがないなと思って、新しい言葉を綴るのが億劫になっていました。
実際、ぼくはいつもの学園生活(笑)に戻ってバイト、勉強、家事、交友などに追われる日常に戻り、考える時間も自ずと増えたような気がします。
と言うより、非日常の環境に置かれていると脳が思考よりも優先して処理しなければならないことが沢山あって、気づきが減ることがありそうです。
脳が絶えず刺激に晒されていて、忙しい。
ぼく自分自身や周りに対する気づきが時々ふっと首をもたげた時、それをじっくりと咀嚼するにはやはり日常の中だなぁと思うこの頃です。
もうそろそろ隠居生活するおばあちゃんのような文章を書いてしまいました。
なんで書こうとしたのかは、それはまあ新しい考え方が出てきたからです。
ここは思考の掃き溜めなので、ぼくの思考や成果物(結局全部InstagramやTwitterに流れてしまっているけど)の変遷の記録として後世のぼくに渡す絵巻物となることが最重要使命なのです。
_______________(11/9 3:57)
そして飽き性のぼくは余程のエネルギーがないと1本の記事を一気に書きあげることが難しく笑(全く笑テヘじゃない)
この記事を描き始めたのが大体3週間前で、、、
またもたもたしていると本題に入る前に飽きてしまうのでさっさと書きます。
タイトルにもある通り、ぼくはちょっとだけ学問として建築を見つけることが出来た気がするのです、夏休みが終わってから。
というのも、建築完全に理解した!という意味では決してなくて(1つの学問であるので一生を費やしても完全には理解出来ないし、人生を費やす価値があるものだと思っているし、限られた時間の中で何かを見つけないといけないとは思っている。)、根底にしっかりとした理論があって、気まぐれにエゴだけでやれるものではないんだなとポンッと腑に落ちたのです。
今まで「エゴ」だの「自己表現の場」だの、多少は建築家さんもクリエイターなので、個性を出したいという人間の基本欲はあるにしても、それを強く感じて建築わからん!w となっていたのは、まだまだ地に足を付けていなかったからなのか、と分かった。
実態のないものをずっと追いかけていかなくてはならない気がして(現実、正解はなく、適解が複数あるだけ)、それならば「それ」に携わっている人たちは何で自分を持たせているのか、物理的にこの世界に自分の成果物を作り上げる成功体験か。正直それはあるし、自己陶酔に陥ることもある、なぜなら自分の成長がtangibleなものになる訳だから。
だが、先人が築き上げてきた理論がなければその過程を経ることが不可能であることに気づいた。結果的に自己満となっても、しっかりと客観的な自己満に浸ることを可能にするためには理論を踏まえて歩いてこないといけない。
ここでぼくは、建築を「勉強出来る実態のあるもの」として再認識した。